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May 17, 2012

大正区

15日が沖縄返還40周年という記念すべき日
昨日はぶらっと大正区の方を散策してみたfoot
JR大正駅から平尾まで南下
大正区役所を過ぎると千島公園があって
入口に昭和山と書いてあるのが気になったのですが今回はパス
アゼリア大正の立派な建物を拝見して関西沖縄文庫に立ち寄り
サンクス平尾(平尾本通商店街)に到着
予想外に静かな商店街でしたhappy01

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歩きまわってみるとわかるのですが
生野のコリアンタンみたいに沖縄関連の店が
一箇所に集中しているという訳ではなくて
駅周辺にもちらほら点在しているし、
大正区内全域に沖縄料理店とかはばらけて点在している
という印象を受けましたshine
平尾本通商店街手前の沖縄風ホルモン焼の店でホルモンでオリオンビールbeer
が飲めれば最高なんだろうけどなぁー、と思ったのですが、
今はアルコール厳禁の時期なので・・・weep
その後木津川まで出て川沿いに工場地帯歩き落合下渡しへ
はじめて渡し船にのりましたship
乗客は自転車の男性が4人、私一人が徒歩客
あっという間に西成区側の対岸へ到着
ついたところは周りが工場や下水処理場の他
街らしい雰囲気が見えず、前の一本道をトラックが頻繁に行き交う
私以外の自転車の乗客はみんなぴゅーと行ってしまって
なんだかひとり陸の孤島に取り残されたような気分で不安になる
なんとか工場地帯を回りこんで脱出coldsweats01
南海高野線津守駅の先に津守商店街を発見

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ほっと一安心、この先は馴染みの鶴見橋商店街に続いている
鶴見橋の関西ニューアト久しぶりに寄ろうかと思ったがやめた
「la VENUS de japon」に出演してた西浜りえさんが沖縄出身だった
ぱっと見バタくささや濃い顔が十三のゆかりちゃんに雰囲気が似てる
このビデオには十三プロモーションのキャプションもはいってます
彼女は89年にAVデビューし、
92年からは十三ミュージック専属のストリッパーとしても活躍
「この業界に入ったきっかけは新宿の歌舞伎町をぶらっと
歩いていたらスカウトマンに声をかけられて…」話す彼女、
どうして沖縄から出てきたのかも聞いてみたかった
彼女は今どうしているんだろうsign02

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May 14, 2012

四方山

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5月も早なかば

散歩するにはいい季節sun

日々の生活に追われていると
たまにはベランダにも出て
外の景色でも眺めようということすら忘れてるbearing

久しぶりにベランダから眺めてみたeye

近くに教会の塔、仏舎利塔、第二京阪道路

その後ろが生駒山系、目を凝らすと生駒山上遊園地が見えそう

南西方向には大日のマンション、その奥が梅田の高層ビル群が見えるbuilding

反対北側は山之手町から桜木町の丘陵地帯

ここで37階までエレベータで登ってみる

窓から北西を眺めると淀川、北摂の山々から、
さて北に廻って京都方面まで見渡すことが出来た

これからも心に余裕を持って外を眺めようdelicious

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『物語の娘―宗瑛を探して』(川村湊 講談社 2005年)読んだ。
芥川龍之介と片山廣子の恋は意外と片山廣子の方が積極的だったのを知って今さらながらびっくり。それと、宗瑛(片山總子)をめぐっての堀辰雄と『ありらん峠』の作者金文輯との三角関係の存在?の話もあり2度びっくり。
金文輯という初めて聞く名前に興味をもったわけです。そんなことがきっかけで桃谷駅からコリアンタウンを経て鶴橋までを歩いてきた。

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桃谷商店街を歩いていたらなんだか怪しげなスナック街発見sign02
ネットで検索してみたら加藤政洋さんが同じ場所を発見していた。
街を見る視点が似てたりしてcoldsweats01

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鶴橋本通商店街、お昼時のアリラン食堂の呼び込みのおばちゃんはすごい勢いですねcoldsweats02

May 13, 2012

FLASH BOWL in SPRING

久しぶりにアメフト観戦。昨年は私としたことが試合の日がことごとく仕事になり一度も観戦できずじまいに終ったので、今年は行ける日は頑張って応援に行きたいと思っています。

第58回関西学生アメリカンフットボール大会 関西学院大学 - 龍谷大学

EXPO FLASH FIELDも久しぶり。万博記念公園駅から歩いていくとエキスポランドの遊具が綺麗に撤去されているのを見て一つの事故の怖さをあらためて思い起こす。本日QB畑君はスタイルせずインカム役でした。先週の日大戦で前半に出場し出来はもう一つだったみたいですね。この時期は基礎体力作りがメインでタイミングやレシーバーとのあうんの呼吸で投げる畑君としてはあまりWRとの練習の積み重ねができていないこの時期としては当然なのかなぁと思うし、これから徐々によくなっていくでしょう。2010年までのエースQB加藤君はタイミングでなく確実にレシーバーがあいているのを見極めてそこに投げ込むその確実性があり、あまり危険を冒さないタイプだったのですが、昨年からのエースQB畑君はレシーバーがあいていようがあいていまいがタイミングやレシーバーとのあうんの呼吸で投げれてしまうのは、早出練習をしてでもパートナーであるレシーバーとのパスの練習を相当つんでいるんだろうなぁというのは感じさせてくれる。

練習風景 QB#11斎藤君、向こう側がQB#18前田君

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試合前のハドル。若手中心のメンバー構成です。
両チームとも反則が多すぎ。

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パスを投げる構えのQB#11斉藤圭。
今は試合に出て経験を積むこと、試合になれることです。

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ロングパスを投げるQB#18前田龍二。
来年以降のエースQBとして期待しています

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試合は23-7でKGの勝利。
今日の私の注目選手は、TE#94松島君、K/P#15三輪君、RB#4米田君でした。

May 07, 2012

渡瀬淳子

U1205061こんばんは!
GWの連休も終わりですね。
私は暦に関係なく仕事でした。
1日から昨日まで出勤。明日からまた出勤。
今日一日だけ休み。
そのかわり5月後半にまとめて休みをとる予定です。
4月25日が尾崎豊が亡くなってちょうど20年の日!
色々と感慨深い。。。
そして私のブログが時を同じくして20万アクセスを通過しました。
1日50件ぐらいしかアクセスのないブログなのでよく頑張った(-_-;)
なんとか10年続けたいという思いがあったから、あと1年です。

宇野浩二の「女怪」(昭和2年 近代文藝社)読んだ。

装丁が美しい。当時の文学書は、細部にこだわった豪華な装丁も多く、ごついけど見た目ほど重くなくて、その持った時の重みがなんともいえないんです。

モデルと言われる渡瀬淳子はヒステリーでないときの伊沢きみ子と同じくらい、宇野浩二の小説の中の好きな登場人物です。

前のブログの記事からの続き。
神戸のマッチ工場の重役の地位にあった又従兄弟に上の学校に行きたいという意思を続けていた宇野浩二。

明治43年(1910)
4月、浩二は又従兄弟本多一太郎の学資の援助を受けて晴れて東京の早稲田大英文科予科に入る。この頃、天王寺中学の同窓青木精一郎(青木大乗)の紹介で渡瀬淳子を知った。11月頃、牛込矢来町の三枡館に下宿。同じ下宿に、女優になろうとしていた渡瀬淳子もいた。

大正3年(1914)
牛込区原町七一の清月館に下宿。画家の永瀬義郎、鍋井克之の計画した美術劇場に脚本部員として参加したが、結局脚本は書かなかった。3月、渡瀬淳子も加わたこの劇団の第1回の試演には、ストリンドベルヒの「熱風」「火遊び」「伯爵令嬢ユリエ」の三作が選ばれ、楠山正雄監督、秋田雨雀舞台指揮で、福沢桃介邸の小劇場で行なわれ、淳子が「熱風」の女主人公を勤めた。4月、芸術座を脱退した沢田正二郎(早稲田で同学年)、田中介二が加わって有楽座で公演を行なったが、財政的破綻で解散した。この劇場の渡瀬淳子は、このときの縁で沢田と結婚した。

大正4年(1915)
3月、早稲田大学中退。春、母上京。東片町にいた淳子の世話で本郷区西片町に家を借り、母と生活することになった。この西片町の家で翌年「苦の世界」のモデルとなった伊沢きみ子を知って、同棲する。また西片町の借家を斡旋してくれた渡瀬淳子はのちに夫の沢田正二郎とともに一旗上げるため大阪に向かうのであった。

大正10年(1921)
1月、長篇「女怪」を『婦人公論』に連載(翌11年12月完結)。

大正12年(1923)
5月、玄文社から『女怪』を出版。 

昭和5年(1930)
1月2日、渡瀬淳子が急性脳膜炎で死去。

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渡瀬淳子は魔性の女、男を惹きつけずにはおなかない、ある種の男性たちの目を奪う魅力を持った女性ということになるのですが、どんな顔立ちだったのかネットで検索してみたが、画像は見あたらなかった。諏訪根自子のような整った美人ではないでしょう。パンタライ社のところで述べた河合澄子に似たコケティッシュなタイプとかってに想像している。宇野は大阪から上京してきた渡瀬淳子に牛込の下宿を世話して、同じに下宿に住むことになったのであるが、美人の彼女に淡い恋心を抱いていたようにも思われるが、まじめな宇野の事なのでもっぱら淳子の横で小説の話、哲学の話、美術の話、演劇の話に終始して、男女の関係のようなものにはいたらなかったのでしょう。そんな淳子との不思議な交際のなかから宇野は彼女の生い立ちを聞きだし作り上げた小説が『女怪』なんですね。

宇野自身がモデルと思われる相田が次のように喋る。残念ながら宇野自身は顔の綺麗な男とは程遠かった。

「まったく、この頃の銀子さんと来たら、動物で言ふと、交尾期に這入つたといふ形ですな。どうも山村君とこだけぢやありませんよ、僕の見るところでは、仁羽君のところには勿論、それからそれと手を延ばして、最近には何とか言ふ新派の俳優とも交際を始めたらしいですよ。それや、勿論それ等が皆どう斯うと言ふんぢやないだろうが、一つには所謂知名狂といふ奴で、知名でさえあれば、文士でも画家でも、音楽家でも俳優でも、誰彼なしに近付になりたいといふ病ですね。それで、その中の顔の綺麗な男だと、早速、さあ、何といひますか、賛成してしまふんですね。」

次のように淳子が言い放つシーンが好きです。

「私あんな男、大嫌ひ!」と銀子は言ひ放つた。「私、あんな気障な、にやけた男は大嫌ひ、--ね、相田さんは私の性分を御存知ですわね。--あんな人に限つて屹度頭がないんですもの。」

大正4年、西片町の家に広津和郎がころがりこむになり、広津は「年月のあしあと」の中で当時のことを次のように振り返っている。

「その頃沢田正二郎が渡瀬淳子と東片町に家を持っていたので、これもよく宇野のところにやって来た。島村抱月の芸術座から脱退して、まだ後の新国劇の旗上げをしなかった頃の彼は、始終旅まわりをやっていて、旅から帰って来ると宇野のところに来て、私達と花など引いた。沢田は早稲田で宇野と同級であったが、宇野や私よりも一つ年下であったから、数え年の二十四、近頃のように満でかぞえたら、やっと二十二か三位の若さであった。須磨子に対する抱月の溺愛に憤慨して、芸術座をとび出した時の話などをしていた。
 その細君の渡瀬淳子も又よくやって来たが、これは女だてらに露骨な狼談などを平気でやって、われわれを顔負けさせた。何とかいう歌集を出していたが、「あの歌はみんな僕が作ってやったんだよ」と或時宇野は笑いながら私に云ったことがあった。沢田と一緒にならない頃--大阪時分から宇野とは知合で、宇野の小説によると、宇野を頼って彼女は上京し、それを宇野は深切にいろいろ世話をしてやったらしいが、宇野が彼女にどういう感情を持っていたかは、小説の上でも解らないし、実際の上でも解らない。」

さてその後の渡瀬淳子さんはどのような運命をだどったのでしょうか。

大正4年(1915)沢田正二郎と結婚し、正二郎の親友ら11人で「新国劇」を結成。女優として活躍。大正13年(1924)離婚するまでに、桃代と正太郎を得た。2人の子供は夫である沢田正二郎がひきとった。その後は、新劇で活躍。没年間際には、銀座裏のジュンバーのマダムをしていた。沢田正二郎が急死した翌年の昭和5年死去。『鬼子と好敵手』を読むとわかるのだけど、沢田や淳子が死んだ昭和4・5年は宇野自身が精神的な変調で病床についていた時期だったんですね・・・

April 18, 2012

本多義知と神戸

長い10連勤が終わりようやく休み。
天気もいいことだし久しぶりにぶらぶらしてきました。
宇野文学の跡をだずねて、根成柿若江村に続いて3回目です(笑)

宇野浩二の年譜をおさらい。現代日本文学大系46(筑摩書房)の巻末年譜より

明治27年(1894) 3歳
3月、父が脳溢血で急死。その遺骨は福岡市大学通り崇福寺に葬られた。5月、一家は神戸市湊町番外23番屋敷に移った。父の従弟本多義知の世話によるものだった。

宇野浩二は母に手を引かれて福岡の南湊町から同じ港町の神戸市兵庫区湊町番外23番地の親戚・燐寸工場社長宅へ旅に行きくれて転がり込む。そして居候の身でありながら、竹中郁や淀川長治も通った永沢町3丁目「兵庫幼稚園(現・市立兵庫くすのき幼稚園)」に通園したようだ。(神戸市発行「兵庫花を巡る文学散歩」より)
浩二たちが神戸の本多家にいたのは大阪市東区糸屋町に引っ越す翌年(明治28年)の7月まで。浩二は本多家から近くの兵庫幼稚園に通った。

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水上勉氏の「宇野浩二伝(上)」(中公文庫)の30、49、114、437あたりを読み直しました。

「浩二が(兄)崎太郎と共に、母に手をひかれて福岡の南湊町から神戸へ移ったのは、明治二十七年(一八九四年)五月である。三月二十日が父の死であるから、(母)キョウは1ヵ月そこそこで南湊町の借家をたたんだことになる。二児をつれて、キョウが頼った先は、(父)六三郎の従弟本多義知の家である。神戸市湊町番外二十三番地。偶然であろうか、第二のこの町も「湊」であった。番外地は、いまの湊川神社の近くであるから、海もそう遠くはない。
本多義知は、当時、明治燐寸会社の社長をしていた。会社は神戸でかなり名がとおっており、事業もまあまあで、その頃社長におさまって羽振りがよかった。
燐寸会社をはじめたのは、じつは、本多がぶらぶらしていた時分に、町内にシナ入がいて、「コレナカナカ有望商売アル」といって、当時はまだ民間にそうなかったマッチを見せられて、軸をつくることや、軸の先と箱に貼る紙にクスリを塗ることなど伝授され、それから発奮して頑張り、いまの会社にのしあがったという。
しかし、本多の家は、かなり豪勢だった。兵庫駅の停車揚前から程近いポプラ並木の植わった公園にでも行くような道のつきあたりにあって、表構えは西洋風ながら、中へ入ると純日本風といった感じで、工場はその裏つづきにあった。」

この神戸の本多の家には知恵おくれの兄・崎太郎を明治33年から大正13年まで預けている。浩二は大阪に引越したあとも、知恵おくれの兄がそこに世話になっていることや、上級の学校(中学・大学)に行きたかったことから、学資の面で援助を受けることの相談やらで何度か神戸の本多家まででかけたのであろう。
その頃の兵庫駅は、どこの駅前にもある、駅前の広場がなく、停車場を出ると、半町程の間、両側には、家らしい家がなく、ポプラの並木が、公園へでも行く道のように、行儀よく並んでいたという。
さて、快晴。兵庫駅に降り立ちますが、どこの駅前にもある、ロータリーがあり、どこもかしこも通りの両側にはビルが立て込んでいます。

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水上勉氏の「宇野浩二伝(上)」に登場する本多義知について、ネットで検索してみました。明治燐寸会社というのは明治社のことであるとわかりました。
神戸におかるマッチ工業は明治12年に湊町(現在の永沢町あたり)に本多義知が明治社の工場を設立したのが始めという。いわば本多義知は神戸のマッチ製造の草分け、重鎮なんですね。

本多義知略歴
1879(明治12)年 4月、本多義知が「明治社」第一工場を設立、燐寸製造を始める。
1887(明治20)年 わが国の燐寸組合の前身である兵庫県燐寸製造組合が設立される。この組合の役員として播磨幸七、本多義知、瀧川辨三の名がある。
1887(明治20)年 7月、神戸区物産品評会に於いて播磨幸七(鳴行社)、本多義知(明治社)のマッチが一等褒章を受章。
1907(明治40)年 三井物産の資本をバック直木燐寸社(直木政之介)、明治社(本多義知)が合併して「日本燐寸製造株式会社」を設立。

神戸での燐寸製造は、明治10年の下山手通にあった神戸監獄所内での生産が初めてで、明治11年には神戸港から上海に向けて輸出が始まったと言われているが、本格的な製造は明治12年の明治社からと言うのが通説になっていて、本多義知が実質的には神戸マッチ工業の創始者とみられているようです。
1904(明治37)年 『工場通覧』を拡大してみました。
明治社第一工場(湊町三丁目)、明治社第二工場(大開通五丁目)に本多義知の名前が見えます。
どうしても上の大学に行きたいという向学の思い、また知恵おくれの兄がお世話になっている恩義に報いるため、母の指示もあって本多家への御機嫌伺いに、何度も兵庫駅からマッチ工場がそばにある屋敷へと足を運んだのであろう。

兵庫駅降りポプラ並木の植わった公園にでも行くような道もわからず、永沢町、湊町界隈を明治社の痕跡でもなかろうかと歩きまわってみましたが、浩二が通ったゆかりの「くすのき幼稚園」以外はなにも見当たらず。永沢町手前交差点にあった「もっこす」というラーメン屋さんにはじめて入ったけど、かなりおいしかった。永沢町の厳島神社も平清盛ゆかりの地みたいですね。明治社第二工場のあった大開通五丁目もまわって帰途につきました。

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次はいづこへ・・・

April 03, 2012

神崎清さん

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ずっと積んであった神崎清さんの本をまとめて読んだ。
正義派の神崎さんは、売春はよくない、売春をなくそうということでパンパン、基地売春、集団売春街、人身売買の問題に真剣に取り組みをされていたというのが、現場に足を運んでの綿密な調査や色んな集会での演説、国会での証言、各種統計資料の利用からもわかるわけですが、苦もなくおもしろく読めてしまうのは、どこかに同じ男性のエロの視点があるからなのかなぁとも思った(こんとなこを書いたら神崎さんに失礼かもしれないなぁ…)。

『売笑なき国へ』 一燈書房、 昭和24年
『娘を売る町ー神崎レポート』 新興出版社、 昭和27年
『夜の基地』 河出書房、昭和28年
『戦後日本の売春問題』 社會書房、昭和29年
『売春 この実態をどうしたらいいか』 青木書店、昭和30年
『売春 決定版・神崎レポート』 現代史出版会、昭和49年

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「売春 この実態をどうしたらいいか」の裏表紙を参考に昭和30年当時の経歴を作成。

神崎清は明治37年8月、四国高松市に生まれた。神戸二中、大阪高校をへて、昭和3年、東京帝国大学国文科を卒業。卒業論文は「芥川竜之介論」だった。専攻は明治文学史。戦後、婦人・児童問題の仕事に従事する一方、売春問題にとりくみ、多くの事件に関係してきた。昭和25年の池上特飲街問題がおこったとき、地元のPTAをたすけて環境浄化運動に成功例をひらいた。昭和26年、本木の人身売買と山中湖畔フジ・キャンプ基地問題をとりあげ世論を喚起。昭和27年、横須賀のタマラン節を追放。昭和30年の衆議院法務委員会に出席をもとめられて、売春処罰法案に賛成意見をのべたが、法案は否決されてしまった。現在(昭和29・30年当時)、日本こどもを守る会副会長、厚生省中央児童福祉審議会委員、労働省婦人少年問題委員。著書には、「文学教室」「現代婦人伝」「売笑なき国へ」「娘を売る町」「夜の基地」「戦後日本の売春問題」「革命伝説」「実録幸徳秋水」などがある。

しかし、いつの時代も考えさせられるのは貧困の問題である。
「弁護士将校のキャナディ大尉は、たしかに一風かわったアメリカ人であった。彼の弁護は、「人間の空腹からおこる犯罪は、犯罪でない」という独特の法理論の上に立っている。軍事裁判の法廷に出ても、「日本人がわるいのではない。空腹がわるいのだ」といって、つねに日本人の肩も持っていた、ということである。」(「夜の基地」P.99)以前つきあいのあったHさんが「一番つらいのは食べられないこと。」と言っていたのを思い出した。最近、小林多喜二全集から小樽の曖昧屋を舞台にした「師走」「残されるもの」「最後のもの」「瀧子其他」「曖昧屋」「雪の夜」「その出発を出発した女」を読んだ。貧困ゆえに身を売らねばならなかった田口タキを苦界から救い出し、多喜二は彼女にプロポーズしたけど「私は貴方の重荷になるようなことはできない」と受け入れず多喜二もとを去ったという話はかなしい。新潮文庫の新刊「藤澤清造短篇集」(西村賢太編)も読んだ。全編貧困への呪詛を強く感じる。「刈入れ時」は名作ですね。伊藤博著「貧困の逆説」(2011年9月)のまえがきには次のようにある。「貧困といえば、現在、我が国において、その深刻な状態が大きな政治・社会問題となっている。日本の未来は決して明るくなく、むしろ、出口がまったく見えない暗い情況の只中にいるというのが、多くの人々の共通認識・生活実感ではなかろうか。」こういう時代であればこそ、50年以上まえに書かれた神崎さんの多くのメッセージを重く受け止めあらためて評価していきたいと思っています。

昭和31年に念願であった売防法が制定されると、売春問題に関して書く機会が減ったのか、書く意義を見出せなくなったのか、この問題に関する本は出版されなくなった。昭和49年の「売春 決定版・神崎レポート」は、以前書いた文章を一冊にまとめたもので、巻末に「補章」としてその後の状況を述べている。あれだけ米軍やアメリカ人を罵倒していたこともあってか、問題が山積みする沖縄には、渡航申請を米軍当局に拒否されて、ついに渡ることができなかったとのことです。

時代は変わり21世紀、集団売春街の灯はその後50年を経過した2000年にはいっても消えるとこはなく生き続けた。遅まきながら横浜や沖縄での環境浄化の市民運動があらためて注目され、町田「たんぼ」、黄金町、安浦、五条楽園、沖縄真栄原・吉原、豊平川(南6東3)と次々と姿を消した。あまりにも遅すぎた戦後売春史の終着。まだ終っていないのかもしれない。神崎さんが生きていたらなんて言っただろう・・・

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若葉町商店会に残る「旅館ほざき」。

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飛田本通り商店街 「紳士の社交場 アルサロ アイノス」

March 19, 2012

かほりまちより

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早3月なかば。
昨年の3月1日に引越したので、早いものでまる1年がたった。
ようやくマンション生活にも慣れてきたかな。
自治会も設立に向けてようやく動き出したみたい。
香里園駅の東地区再開発は今枚方市よりの北側1街区がまさに工事中。
あと動きとしては香里園駅の高架事業の説明会が先日コミセンでありました。
線路沿いの一部商店はやはり立ち退きになるでしょうね。
完成するのは私がおじいちゃんになってからかな。

新版荷風全集の30巻、別館を見たくて茶屋町のMARUZEN&ジュンク堂に行った。
旭屋書店の梅田店が閉店になって何かと不便になった。
紀伊国屋書店(梅田本店)の日本文芸評論のコーナーはダメになった。
で、茶屋町に行くわけですが、荷風全集別館おいてなかった(T_T)
アバンザのジュンク堂にもおいてなかった。
注文して買えってことですよね。1冊7,140円もするみたいです(>_<)
仕方なく文芸評論の荷風本のコーナーを覗いていると
見慣れた題名の本のなかに見知らぬ一風かわった題名の本発見。
「永井荷風と部落問題」(野町均著 リベルタ出版 12年03月刊)

K1203181また荷風先生がどんな問題発言をしたのか気になって買ってしまった。随筆「傳通院」について『荷風随筆』第一巻では「久堅町の穢多町から」が『荷風随筆集』上巻ではなんの断りもなく「久堅町から」に改竄されていることが取り上げられており、怒りの矛先は岩波書店に向けられているのですが…。災難ですね、岩波書店も(笑)。私も持っている旧版の『荷風全集』の日記にはいくつかの伏字があったんですね。知らなかった。伏字なしの新版も持っているので大丈夫です。本書はそのあとも永井荷風の話が続くのかと思いきや、著者の教育現場における部落問題の話になり、そういった関心を普段持つこともない私には非常に勉強になりました。最後の「宴会論」を改稿した「荷風ことはじめ」は、私も大の宴会嫌いなので激しく同意です。

他には、まだ未読の「貧困の逆説-葛西善蔵の文学-」(伊藤博著 晃洋書房 2011年9月) を発見。こちらはかなり難解そうなのでまだ読むのは先になりそう。

March 06, 2012

探求本

欲しい本はいっぱいあって、一応探求本リストを作っています。しかし、どうしても欲しいって思う本はちまなこに探し回ってもなかなか見つからないものでして、それがもう諦めた頃になって、簡単に見つかったりする。それがあるのでやめられなかったりするのです。

H1203061「東京人」2009年4月号(特集 花街・色街)で、P.97・98に紹介されている昭和29年3月特別増刊号の『実話雑誌』がずっと欲しかったのですが、ようやく見つけました。特集「実態調査全国赤線青線地区総覧」です。本が古本屋から届き、おそるおそる開封し、慎重に取り出す、そして手にして感激。古書収集癖のない方にはちょっと理解してもらえないと思うのだが…。本棚の空きがないというのに古書蒐集はやめられないです。写真はグラシン紙をかけているので実際の色が見えないのが残念。

H1203062もう一冊。『女の百科』昭和35年6月臨時増刊 旅と温泉
温泉旅行好きな私には素晴らしい内容の充実した本です(~_~;) 
昭和35年なので赤線廃止後の本ですね。白浜温泉がこんなことになっていたとは…。歓楽温泉として発展してきた場所は今はどこへいっても寂れた感じや廃墟感漂うところが多く、今は昔のはなしで歓楽温泉地として賑やかだったころの繁栄の跡やなごりを見せつけられることもあり寂しく思ったりもしますが、時代の流れ、レジャーの楽しみ方も変わってきて仕方のないことではある。

探求本の旅はまだまだ続く。

February 29, 2012

修善寺温泉

伊豆長岡から伊豆箱根鉄道に乗って修善寺温泉にブラリ立ち寄り!
修善寺温泉に来るのはは3回目ぐらいかしら。
桂川と独鈷の湯(とっこのゆ)を望む。
かつて丸見えのあの場所で本当に入浴している人がいたのですが、
今は入浴は禁止となっているんですね。

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橋を渡り指月殿に向うと、
キタ━(゚∀゚)━! 伊豆長岡温泉に続いて、ボットル落とし!
午前中だったのであいてなかった(>_<)
修善寺温泉には残念ながらストリップはない。
遠い昔ここから東の方に少し歩いた南町に修善寺南劇場があったとか…。

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修善寺温泉街にはレトロな雰囲気いっぱいの遊技場が7軒もあります。
いなみつ遊技場(射的・ボットル落とし)
初音遊技場(射的・スマートボール)
レジャーセンター柳川(射的・スマートボール・パチンコ)
矢かた(射的)
山口遊技場(ボットル・射的・鬼退治)
木戸橋遊技場(射的)
梅原遊技場(射的・ボットル落とし)

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オオー!、その左隣の建物を見ると何だろう、
ただのスナックだったのか気になる(^-^;

(終わり☆)

伊豆長岡温泉

旅行に行く前日の17日Yさんに逢って色々と話を聞いた。
出会って10年を超えた。
この先ずっと友達でいられるのか、
ずっとプラトニックな気持ちを持ち続けられるのか
自分にもわからないけれど大切にしたい。

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「温泉銀座」界隈の路地を探索しました。
バスターミナルから伊豆の国パノラマパークローブウェイの方に西に向う道路両脇の細い小道が目指す場所です。
「全調査東海道 酒・女・女の店」(昭和42年 有紀書房)にも紹介されている長岡銀座の「バー暁」の場所には「スナック夕月」。「スナックわかな」「スナック春」の看板は見当たらず。

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伊香保温泉と並んで遊べるスナックがあるという話も聞いていて、夜歩かなかったので現役のちょんの間であるのかわわかりませんが、スナック街のたたずまいが脂粉の巷といった場所であった雰囲気を残しています。地図や数年前の写真と照合してみても、摘発にあっては店の名前を変えているんでしょうね。「スナック春」は「スナックあざみ」に変っています。

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「全調査東海道 酒・女・女の店」(昭和42年 有紀書房)に紹介され唯一現存しているのが長岡銀座の「オニー」。「踊れる喫茶バーをキャッチフレーズにしている店である。」と紹介されています。

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狭い町の通りが奥まで続く。

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このあたりで行き止まり。かつてはペンキ塗りの小屋もあったという。

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いったん逆戻り。「スナック京の家」。

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和風建築を見るとなんとなく脂粉の香り濃い街という感じがしてくる。

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芸妓学校や芸妓まつりもあるようで芸妓さんは健在。

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スマートボールは知っていますがボットルっていうのもあったんですね!

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丘を登るようにゆるやかな坂になっていて、すぐ上が八景園です。

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銀座通りを渡り細い路地を歩くとしもた屋風の家が両側に。
この近くに「スナックりんご」があったはずだが、見落とした!?

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「が、朱に交われば赤くなるのか、一つ名になった現在は、狭い町通りの両側の家の二階から、女の首がひょこひょことでて、みだらな呼びかけ声を浴びせるようになっている」(「酒と女 全国温泉めぐり」 昭和32年 田中書店)

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「スナック ブス」の看板ははずされてしまった??

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メインストリート(温泉通り)にある射的場。
温泉街が人で賑わっているという感じはしないです。

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ホテルサンバレー伊豆長岡に宿泊したのですが、温泉街を歩いいて感じたのは、ホテルサンバレー伊豆長岡だけ賑わっているのではということです(汗)

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ホテルサンバレー伊豆長岡は朝食・夕食ともバイキングで、このバイキングがうりなんですかね。温泉「満天の湯 夢殿」もゆったり出来てよかったです。まぁ、私は温泉に関係なくサウナにずっとはいってますが・・・

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旅の終わり。帰りは古奈温泉経由で伊豆長岡駅まで歩いて帰りました。

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