こんばんは!
GWの連休も終わりですね。
私は暦に関係なく仕事でした。
1日から昨日まで出勤。明日からまた出勤。
今日一日だけ休み。
そのかわり5月後半にまとめて休みをとる予定です。
4月25日が尾崎豊が亡くなってちょうど20年の日!
色々と感慨深い。。。
そして私のブログが時を同じくして20万アクセスを通過しました。
1日50件ぐらいしかアクセスのないブログなのでよく頑張った(-_-;)
なんとか10年続けたいという思いがあったから、あと1年です。
宇野浩二の「女怪」(昭和2年 近代文藝社)読んだ。
装丁が美しい。当時の文学書は、細部にこだわった豪華な装丁も多く、ごついけど見た目ほど重くなくて、その持った時の重みがなんともいえないんです。
モデルと言われる渡瀬淳子はヒステリーでないときの伊沢きみ子と同じくらい、宇野浩二の小説の中の好きな登場人物です。
前のブログの記事からの続き。
神戸のマッチ工場の重役の地位にあった又従兄弟に上の学校に行きたいという意思を続けていた宇野浩二。
明治43年(1910)
4月、浩二は又従兄弟本多一太郎の学資の援助を受けて晴れて東京の早稲田大英文科予科に入る。この頃、天王寺中学の同窓青木精一郎(青木大乗)の紹介で渡瀬淳子を知った。11月頃、牛込矢来町の三枡館に下宿。同じ下宿に、女優になろうとしていた渡瀬淳子もいた。
大正3年(1914)
牛込区原町七一の清月館に下宿。画家の永瀬義郎、鍋井克之の計画した美術劇場に脚本部員として参加したが、結局脚本は書かなかった。3月、渡瀬淳子も加わたこの劇団の第1回の試演には、ストリンドベルヒの「熱風」「火遊び」「伯爵令嬢ユリエ」の三作が選ばれ、楠山正雄監督、秋田雨雀舞台指揮で、福沢桃介邸の小劇場で行なわれ、淳子が「熱風」の女主人公を勤めた。4月、芸術座を脱退した沢田正二郎(早稲田で同学年)、田中介二が加わって有楽座で公演を行なったが、財政的破綻で解散した。この劇場の渡瀬淳子は、このときの縁で沢田と結婚した。
大正4年(1915)
3月、早稲田大学中退。春、母上京。東片町にいた淳子の世話で本郷区西片町に家を借り、母と生活することになった。この西片町の家で翌年「苦の世界」のモデルとなった伊沢きみ子を知って、同棲する。また西片町の借家を斡旋してくれた渡瀬淳子はのちに夫の沢田正二郎とともに一旗上げるため大阪に向かうのであった。
大正10年(1921)
1月、長篇「女怪」を『婦人公論』に連載(翌11年12月完結)。
大正12年(1923)
5月、玄文社から『女怪』を出版。
昭和5年(1930)
1月2日、渡瀬淳子が急性脳膜炎で死去。
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渡瀬淳子は魔性の女、男を惹きつけずにはおなかない、ある種の男性たちの目を奪う魅力を持った女性ということになるのですが、どんな顔立ちだったのかネットで検索してみたが、画像は見あたらなかった。諏訪根自子のような整った美人ではないでしょう。パンタライ社のところで述べた河合澄子に似たコケティッシュなタイプとかってに想像している。宇野は大阪から上京してきた渡瀬淳子に牛込の下宿を世話して、同じに下宿に住むことになったのであるが、美人の彼女に淡い恋心を抱いていたようにも思われるが、まじめな宇野の事なのでもっぱら淳子の横で小説の話、哲学の話、美術の話、演劇の話に終始して、男女の関係のようなものにはいたらなかったのでしょう。そんな淳子との不思議な交際のなかから宇野は彼女の生い立ちを聞きだし作り上げた小説が『女怪』なんですね。
宇野自身がモデルと思われる相田が次のように喋る。残念ながら宇野自身は顔の綺麗な男とは程遠かった。
「まったく、この頃の銀子さんと来たら、動物で言ふと、交尾期に這入つたといふ形ですな。どうも山村君とこだけぢやありませんよ、僕の見るところでは、仁羽君のところには勿論、それからそれと手を延ばして、最近には何とか言ふ新派の俳優とも交際を始めたらしいですよ。それや、勿論それ等が皆どう斯うと言ふんぢやないだろうが、一つには所謂知名狂といふ奴で、知名でさえあれば、文士でも画家でも、音楽家でも俳優でも、誰彼なしに近付になりたいといふ病ですね。それで、その中の顔の綺麗な男だと、早速、さあ、何といひますか、賛成してしまふんですね。」
次のように淳子が言い放つシーンが好きです。
「私あんな男、大嫌ひ!」と銀子は言ひ放つた。「私、あんな気障な、にやけた男は大嫌ひ、--ね、相田さんは私の性分を御存知ですわね。--あんな人に限つて屹度頭がないんですもの。」
大正4年、西片町の家に広津和郎がころがりこむになり、広津は「年月のあしあと」の中で当時のことを次のように振り返っている。
「その頃沢田正二郎が渡瀬淳子と東片町に家を持っていたので、これもよく宇野のところにやって来た。島村抱月の芸術座から脱退して、まだ後の新国劇の旗上げをしなかった頃の彼は、始終旅まわりをやっていて、旅から帰って来ると宇野のところに来て、私達と花など引いた。沢田は早稲田で宇野と同級であったが、宇野や私よりも一つ年下であったから、数え年の二十四、近頃のように満でかぞえたら、やっと二十二か三位の若さであった。須磨子に対する抱月の溺愛に憤慨して、芸術座をとび出した時の話などをしていた。
その細君の渡瀬淳子も又よくやって来たが、これは女だてらに露骨な狼談などを平気でやって、われわれを顔負けさせた。何とかいう歌集を出していたが、「あの歌はみんな僕が作ってやったんだよ」と或時宇野は笑いながら私に云ったことがあった。沢田と一緒にならない頃--大阪時分から宇野とは知合で、宇野の小説によると、宇野を頼って彼女は上京し、それを宇野は深切にいろいろ世話をしてやったらしいが、宇野が彼女にどういう感情を持っていたかは、小説の上でも解らないし、実際の上でも解らない。」
さてその後の渡瀬淳子さんはどのような運命をだどったのでしょうか。
大正4年(1915)沢田正二郎と結婚し、正二郎の親友ら11人で「新国劇」を結成。女優として活躍。大正13年(1924)離婚するまでに、桃代と正太郎を得た。2人の子供は夫である沢田正二郎がひきとった。その後は、新劇で活躍。没年間際には、銀座裏のジュンバーのマダムをしていた。沢田正二郎が急死した翌年の昭和5年死去。『鬼子と好敵手』を読むとわかるのだけど、沢田や淳子が死んだ昭和4・5年は宇野自身が精神的な変調で病床についていた時期だったんですね・・・
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