『近松秋江伝』
『近松秋江伝―情痴と報国の人』(小谷野敦 2018年 中央公論新社)読み終えた。
近松秋江ものでは『近松秋江と「昭和」』(沢豊彦 2015年2月 冬至書房)以来。
小谷野敦さんの伝記ものの中では今までより大分薄くなっているので楽に読めた。
あとがきに小谷野さんも書かれているけど、小谷野さんがわからないことがあると亀井麻美さんにツイッター上で質問して、それに亀井さんが見事に答えるというのをリアルタイムで見ていた。小谷野敦さんも最初は『近松秋江伝』を出す気はなかったのが、亀井麻美さんとのやり取りの中で徐々に気が変わったのではなかろうか。
本書を読んでわかったこと。
近松秋江といえば自分の女性関係等の私生活を暴露する私小説作家で情痴のイメージがつきまとう。しかし秋江は『別れたる妻』や『黒髪』連作を書いたあとでも、これらを書いたことは恥ずかしことだ、自分本来の意図ではない、と言い続け、自分は本来馬琴や頼山陽のようなものを書きたかったのだと言って歴史小説を書き「床屋政談」をするということが続いた。もとから政治趣味があり歴史小説を志していた秋江ではあるが、結婚して子供が生まれ、愛欲私小説はネタが尽きてしまったので、書いて食いつないでいくためにはそうせざるを得なかったというのが本当のところのようである。また子供2人が可愛い女の子だったので、娘たちが年ごろになって、若いころ自分が書いたものを読んで顔を赤らめるだろうと懸念もあり、真面目なものを書いて帝国藝術院会員にでも選ばれれば、その名誉で情痴小説のイメージの帳消しにもなるし、年金も入ってくると考えていたのだろう。
――つまり主として私の性格、境遇から由来した種々雑多な悲しい思ひ、味気ない思ひもした。固より嬉しい思ひもした。また不思議な嫉妬もした。それが為には私は身体が痩せるまでに悲み悶えた。併しながらそれが、何ういふことであつたか。此処ではそれを言うまひ。――或は一生言はない方が好いかも知れぬ。いや、言ふべきことでないかも知れぬ。断じてゝ言ふべきことで無い。何となれば自己の私生涯を衆人環視の前に暴露して、それで飯を食ふといふことが、何うして堪えられやう!。(「雪の日」)
亀井麻美さんが言われるように、確かに沢豊彦さんの『近松秋江と「昭和」』は、「秋江の政治観をことさら高尚なものに祭り上げようとして牽強付会に陥っている観がある」というのはある程度頷けるが、近松秋江の政治好きは「政局好き以上のものではなく、場当たり的で、確固たる理念や政治信念と呼べるほどのものはない」というのはちょっとそのまま賛成し難いところである。
P.150に、15歳も年下の宇野浩二が「近松秋江!」と呼び捨てにしているのだから、宇野も大概変である、と書かれてあるところを読んで思わず笑ってしまった。松山千春が、大先輩の井上陽水や吉田拓郎を「よーすい」「たくろう」と呼び捨てにしているのも大概変なのである。
近松秋江が最後に住んだ借家のあった、東京市杉並区東田町二ノ一七五 は、私が東京時代の最後に住んだ松ノ木町の隣である。
誤植なのかよくわからなかった所。
・111頁6行目 法学士→文学士?
・11頁10行目、124頁11行目 祖父→曾祖父?
・148頁13行目 上池院→上宿院(同宿院)?
・293頁上段4行目 陽太郎→陽一郎?
以下は小谷野さんブログの正誤表。
・96頁注3行目 よく来たがある→よく来たことがある
・110頁14行目 樗牛→樗陰
・151頁9行目 安井金刀比羅宮の三軒長屋の場所について。葵ホテル→もっと南東寄り
本書を読んで安井金刀比羅宮(通称「安井神社」)の三軒長屋の場所に行ってみたくなった。病院帰りに、天満橋から京阪特急に乗って四条まで行ってきました。
姿を消した前田志う(源氏名・金山太夫)の居場所を突き止めようストーカーまがいに尋ね歩く秋江。1919年(大正8年)1月、ようやく安井神社の南側の通りから入った路地の、棟割り三軒平屋中央に隠れていた前田志うを発見する。
その彼女の母親をそっと尾けるシーンの足取りが『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』(加藤政洋編 ナカニシヤ出版 2017年)の序章と口絵に記されているのでその口絵の地図を参考にしながら歩いてみる(亀井麻美さんの足取りも参考)。
四条通から花見小路通に入って、ずっと南下。建仁寺の門のところで突き当る。ここからは左右左右…と何度か曲がりながら進んでいく。建仁寺の塀と大中院の間の曲がり角のところは「続 男はつらいよ」(昭和44年11月)に出てくる。実の母に会いに行くため安井毘沙門町のグランドホテルを探す寅さん(渥美清)と夏子(佐藤オリエ)のシーン。このコースは『男はつらいよ』第2作のロケ地巡りのコースでもある。
うなぎ「吾妻家」と「雲町屋・小松」。「雲・小松」は宿泊施設のようです。
この手前あたりで夏子が従業員のお澄さん(風見章子)にグランドホテルの場所を尋ねる。
左の建物は井伊美術館(旧・甲刀修史館)。
「近代京都オーバーレイマップ」のレイヤーを「昭和26年頃京都市明細図(総合資料館版)」に設定してオーバーレイすると、井伊美術館の所は旅館で、その同じ並びに席貸が8軒並んでいるのがわかる。この写真の古風な建物も席貸と記されている。「安井神社の界隈もまた、雇仲居倶楽部と席貸の双方の集積する、ある種の二業地とでもいうべき擬制的な花街なのであった。」(『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』より)。この安井神社界隈の席貸街が今のラブホテル街につながっている。
「スイーツ巡礼」の幟が立っているところがスイーツのお店「小多福」。この小多福の前で夏子がお澄さんにホテルの場所を質問する。この写真の建物も趣があるが「近代京都オーバーレイマップ」では住宅になっている(両側は席貸)。席貸の建物は、「洒落た飾り窓や破風をあしらった玄関をもつ小家」というような洒落た造りが多い(『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』 加藤政洋編)。
安井金比羅宮に寄ってみると若い女性が縁切り縁結び碑をくぐるのに行列している。
「絵馬の道」東側の「葵ホテル」はなくなっていた。
安井金比羅宮の南側に目的の細い路地発見。
石畳みの小綺麗な路次ではないが・・・。
路地の突き当たりを右に曲がると確かに民家が三軒並んでいる。昔の地図を見るとこの路地の突き当りを右に折れて元来た道に抜けることが出来たが、今は突き当りが行き止まりになっている。
三軒建ちの真中が前田志ふと母親とが隠れ住んでいた平屋の家があったところ。ナンテンの赤い実が美しい。前田志ふの居所をようやく突き止めた秋江は喜んだでしょうが、前田志ふ親子にとっては一番会いたくない人だっただけに驚きだったでしょうね。
席貸4軒が並んでいたホテルリバージュある南北の横町を北上すると、寅さんの実母・お菊(ミヤコ蝶々)が経営している「グランドホテル佛蘭西ハイツ」に辿り着く。現在はホテルサンデーブランチに変わっている。ん、ん、外塀工事中のようです。昭和44年の京都・安井の温泉マーク旅館街(ラブホテル街)の面影はなく、暖かみの感じられた街並みは今は無機質な街並みに変化。半世紀経っているので致し方無い。右側の空き地から東に連なる場所(席貸4軒が連なる場所)には「モナリザ」があったがこちらも消滅。安井のラブホテル街も年々縮小してきている模様で現在4軒程しかない(ホテルラブインパート2、ホテルサンデーブランチ、ホテルリバージュ、フルスファーホテル)。一方で京都では安井界隈でも見かけたゲストハウスなどの簡易宿所が増えてきているようである。
安井金比羅宮北側鳥居の「モナリザ」の電飾看板だけは昔のまま。
4月になるとこの看板のところに綺麗な桜が咲くんですよね。
寅さんが訪ねてからちょうど50年、近松秋江が彷徨ってから100年後の安井訪問でした.
帰りは四条通の西利で漬物を買って無事帰宅。
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