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April 18, 2012

本多義知と神戸

長い10連勤が終わりようやく休み。
天気もいいことだし久しぶりにぶらぶらしてきました。
宇野文学の跡をだずねて、根成柿若江村に続いて3回目です(笑)

宇野浩二の年譜をおさらい。現代日本文学大系46(筑摩書房)の巻末年譜より

明治27年(1894) 3歳
3月、父が脳溢血で急死。その遺骨は福岡市大学通り崇福寺に葬られた。5月、一家は神戸市湊町番外23番屋敷に移った。父の従弟本多義知の世話によるものだった。

宇野浩二は母に手を引かれて福岡の南湊町から同じ港町の神戸市兵庫区湊町番外23番地の親戚・燐寸工場社長宅へ旅に行きくれて転がり込む。そして居候の身でありながら、竹中郁や淀川長治も通った永沢町3丁目「兵庫幼稚園(現・市立兵庫くすのき幼稚園)」に通園したようだ。(神戸市発行「兵庫花を巡る文学散歩」より)
浩二たちが神戸の本多家にいたのは大阪市東区糸屋町に引っ越す翌年(明治28年)の7月まで。浩二は本多家から近くの兵庫幼稚園に通った。

H1204182

水上勉氏の「宇野浩二伝(上)」(中公文庫)の30、49、114、437あたりを読み直しました。

「浩二が(兄)崎太郎と共に、母に手をひかれて福岡の南湊町から神戸へ移ったのは、明治二十七年(一八九四年)五月である。三月二十日が父の死であるから、(母)キョウは1ヵ月そこそこで南湊町の借家をたたんだことになる。二児をつれて、キョウが頼った先は、(父)六三郎の従弟本多義知の家である。神戸市湊町番外二十三番地。偶然であろうか、第二のこの町も「湊」であった。番外地は、いまの湊川神社の近くであるから、海もそう遠くはない。
本多義知は、当時、明治燐寸会社の社長をしていた。会社は神戸でかなり名がとおっており、事業もまあまあで、その頃社長におさまって羽振りがよかった。
燐寸会社をはじめたのは、じつは、本多がぶらぶらしていた時分に、町内にシナ入がいて、「コレナカナカ有望商売アル」といって、当時はまだ民間にそうなかったマッチを見せられて、軸をつくることや、軸の先と箱に貼る紙にクスリを塗ることなど伝授され、それから発奮して頑張り、いまの会社にのしあがったという。
しかし、本多の家は、かなり豪勢だった。兵庫駅の停車揚前から程近いポプラ並木の植わった公園にでも行くような道のつきあたりにあって、表構えは西洋風ながら、中へ入ると純日本風といった感じで、工場はその裏つづきにあった。」

この神戸の本多の家には知恵おくれの兄・崎太郎を明治33年から大正13年まで預けている。浩二は大阪に引越したあとも、知恵おくれの兄がそこに世話になっていることや、上級の学校(中学・大学)に行きたかったことから、学資の面で援助を受けることの相談やらで何度か神戸の本多家まででかけたのであろう。
その頃の兵庫駅は、どこの駅前にもある、駅前の広場がなく、停車場を出ると、半町程の間、両側には、家らしい家がなく、ポプラの並木が、公園へでも行く道のように、行儀よく並んでいたという。
さて、快晴。兵庫駅に降り立ちますが、どこの駅前にもある、ロータリーがあり、どこもかしこも通りの両側にはビルが立て込んでいます。

H1204181

水上勉氏の「宇野浩二伝(上)」に登場する本多義知について、ネットで検索してみました。明治燐寸会社というのは明治社のことであるとわかりました。
神戸におかるマッチ工業は明治12年に湊町(現在の永沢町あたり)に本多義知が明治社の工場を設立したのが始めという。いわば本多義知は神戸のマッチ製造の草分け、重鎮なんですね。

本多義知略歴
1879(明治12)年 4月、本多義知が「明治社」第一工場を設立、燐寸製造を始める。
1887(明治20)年 わが国の燐寸組合の前身である兵庫県燐寸製造組合が設立される。この組合の役員として播磨幸七、本多義知、瀧川辨三の名がある。
1887(明治20)年 7月、神戸区物産品評会に於いて播磨幸七(鳴行社)、本多義知(明治社)のマッチが一等褒章を受章。
1907(明治40)年 三井物産の資本をバック直木燐寸社(直木政之介)、明治社(本多義知)が合併して「日本燐寸製造株式会社」を設立。

神戸での燐寸製造は、明治10年の下山手通にあった神戸監獄所内での生産が初めてで、明治11年には神戸港から上海に向けて輸出が始まったと言われているが、本格的な製造は明治12年の明治社からと言うのが通説になっていて、本多義知が実質的には神戸マッチ工業の創始者とみられているようです。
1904(明治37)年 『工場通覧』を拡大してみました。
明治社第一工場(湊町三丁目)、明治社第二工場(大開通五丁目)に本多義知の名前が見えます。
どうしても上の大学に行きたいという向学の思い、また知恵おくれの兄がお世話になっている恩義に報いるため、母の指示もあって本多家への御機嫌伺いに、何度も兵庫駅からマッチ工場がそばにある屋敷へと足を運んだのであろう。

兵庫駅降りポプラ並木の植わった公園にでも行くような道もわからず、永沢町、湊町界隈を明治社の痕跡でもなかろうかと歩きまわってみましたが、浩二が通ったゆかりの「くすのき幼稚園」以外はなにも見当たらず。永沢町手前交差点にあった「もっこす」というラーメン屋さんにはじめて入ったけど、かなりおいしかった。永沢町の厳島神社も平清盛ゆかりの地みたいですね。明治社第二工場のあった大開通五丁目もまわって帰途につきました。

H1204183

次はいづこへ・・・

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