My Photo
無料ブログはココログ

楽天


« 西の新地から船尾市場へ | Main | 5年振り十三へ »

September 08, 2017

世間師と渡世人

8月24日(月)に入院して9月4日(月)退院。
シスプラチン+アービタックスの化学療法2コース目終了。
今週は5日(火)と8日(金)が外来。
鎖骨上のリンパ節に転移したがんは大きくはなっていないようで現状維持。
抗がん剤でなんとか押さえている感じです。

病室は初日のみ部屋の空きがなくて個室になる以外は4人部屋での生活。
入院時にはだいたい5・6冊の本を持っていく。
4人部屋なので色んな患者さんがいるし、見舞い客も多くて静かに本を集中して読める環境ではなくて、逆にストレスが溜まることも多い(耳栓が必需品になった)。4人部屋といってもカーテンの仕切りで区切られていて、同室の患者さんとの交流は全くなく寂しいものです。「男はつらいよ」の寅さんが病院の大部屋で患者さんや見舞い・付き添いの人を集め、大声でテキヤの啖呵売や口上を述べたり、旅の途中のおもしろい話を吹聴して皆を笑いの渦に巻き込むなんてことは現代の病院にはないのである(大抵寅さんは医者や看護師に注意されているが…)。

今回持ち込んだ本の中から。
『あの山を越えて 行乞記一』(種田山頭火 春陽堂書店 昭和54年)
『死を前にして歩く 行乞記二』(種田山頭火 春陽堂書店 昭和54年)
『種田山頭火の死生 ほろほろほろびゆく』(渡辺利夫 文春新書 平成10年)

行乞記は昭和5年から昭和7年までの九州地方・中国地方西部をめぐる旅日記。
行乞というのは、托鉢・乞食のことで、僧が修行などのために鉢を持って経文を唱えながら人家を回り、米・お金をもらって歩くこと。

昭和5年9月25日

旅のエピソードの一つとして、庄内町に於ける小さい娘の児の事を書き添へておかう、彼女はそこのブルの秘蔵娘らしかつた、まだ学齢には達しないらしいけれど、愛嬌のある茶目子だつた、私が家の前に立つと、奥へとんでいって一銭持ってきてくれた、そして私に先立つて歩いて家々のおくさんを探し出しては一銭を貰つてきてくれた、附添の女中も何ともすることが出来ない、私はありがたいやら、おかしいやらで、微苦笑しつゝ行乞をつゞけた。

興味深かったのは山頭火は自らを「世間師」と呼んでいること。
「男はつらいよ」の寅さんは、揉め事を起したり失恋して柴又を去り旅に出なければならなくなった際に、「そこが、渡世人のつれぇところよ・・・」とお決まりのように言い、自らを「渡世人」と認識している。

「世間師」というのはあまり聞きなれない言葉。
何だろうと思い「世間師」と「渡世人」の意味を広辞苑でそれぞれ調べてみると、

世間師 … 世情に通じて、巧みに世渡りする人。世なれて悪賢い人。
渡世人 … (無職渡世の人の意)博打(ばくち)打ち。やくざ。

んんー、わかったようなわからないような説明なのだが、山頭火の世間師も「フーテンの寅さん」のような渡世人も似たような存在であったと言えよう。

世間師である山頭火は、いわゆる托鉢、お経を唱えながら人の家の門の前に立ちお金を恵んでもらう。それでもお金は足りず、知人、支援者(パトロン)、地元の後援者からの喜捨によって生活が成り立っている。金が底をついては知人・友人(句友)・身内に無心の手紙出す。泥酔しての無銭飲食によりに警察のやっかいになり息子の世話になる山頭火。基本自分は働かずにお金を得ている。なるほど・・・、「悪賢い人」とあるのもわかるし、渡世人のようなヤクザな人にも思える。

一方、自らを「渡世人」と呼ぶ寅さんは、金も持たずに無銭飲食したり、芸者を呼んでの盛大な宴会をひらき後からの請求に驚いたり、長期滞在の宿の支払いが出来なくなったりで警察のやっかいになり、さくらに旅先まできて貰い世話になることもしばしば。しかし寅さんは山頭火と違いテキヤ家業で自分で稼いではいたので「やくざ」な人にも思えない。しかしテキヤの啖呵売というのは実際見たこともないなぁ…。日本全国の旅に出ていた寅さん。どれほどの稼ぎがあったのだろうか。昔は正月とか神社仏閣の縁日、秋や夏のお祭りとかに露店が出ることが多かったんですかね。今は地方も含め露店が多く出るような賑やかな縁日・お祭りが少なくなってきているのかあまり見かけない。いつもマドンナが一緒の勘定の時に舎弟に「これで払っとけ」と財布を投げ出すけど、大抵財布の中はわずかしか入っていなくて足りないという落ち。

「山頭火と歩く」(村上護、吉岡功治 とんぼの本/新潮社 1994年)に「世間師」について書かれてあった。

明治から大正、昭和の前半にいたる時代には、山頭火のように木賃宿に泊って世間を渡り歩いている人は多く、いわば社会の底辺に生きる世間師たちとの木賃宿での交流を山頭火は『行乞記』の中に記している。
「昭和五年の後半約二か月間に同宿となった特色ある世間師たちを、『行乞記』の記述から拾い出してみよう。
 宇部の乞食爺さん、虚無僧、ブラブラさん、行商人、修行遍路、エビス爺さん、尺八老人、絵具屋、世間師坊主の四人組(真言、神道、男、女)、箒屋、馬具屋、松葉エツキス売り、按摩兼遍路、研屋、薬屋、鋳掛屋、お札くばりの爺さん、飴売り、テキヤ、子連れの大道軽業芸人、ナフタリン売り、土方のワタリ、へぼ画家など。」
他にも、旅芸人、旅絵師、猿回し、親子連れ遍路、印肉屋、売卜師、競馬屋、活弁、八目鰻売、勅語額売、櫛売、人参売、浪花師屋、曲搗きの粟餅屋などの世間師と出会った。寅さんのようなテキヤ稼業も世間師の分類にはいる。木賃宿で山頭火が一緒に暮らした世間師たちは、一癖も二癖もある人間で社会からの落伍者でもあった。しかし、これらのいわゆる世間師たちも現在は姿を消してしまっている。

昭和5年10月1日

酒飲みと酒好きとは別物だが、酒好きの多くは酒飲みだ、一合は一合の不幸、一升は一升の不幸、一杯二杯三杯で陶然として自然人生に同化するのが幸福だ(こゝでまた若山牧水、葛西善蔵、そして放哉坊を思ひ出さずにはゐられない、酔うて二コニコするのが本当だ、酔うて乱れるのは無理な酒を飲むからである)。

昭和5年10月10日

今日の行乞相はよくもわるくもなかった、嫌な事が四つあつた、同時にうれしい事が四つあつた、憾むらくは私自身が空の空になれない事だ、嫌も好きもあるものか。

昭和5年10月20日

歩かない日はさみしい、飲まない日はさみしい、作らない日はさみしい、ひとりでゐることはさみしいけれど、ひとりで歩き、ひとりで飲み、ひとりで作ってゐることはさみしくない。

昭和5年11月1日

Gさんに、--我々は時々『空』になる必要がありますね、句は空なり、句不異空といつてはどうです、お互にあまり考へないで、もつと、愚になる、といふよりも本来の愚にかへる必要がありますね。

昭和5年12月4日

さみしいなあ--ひとりは好きだけれど、ひとりになるとやつぱりさみしい、わがまゝな人間、わがまゝな私であるわい。

昭和6年12月23日

一杯ひっかけて入浴、同宿の女テキヤさんはなかなか面白い人柄たつた、いろいろ話し合つてゐるうちに、私もいよいよ世間師になつたわいと痛感した。

昭和7年1月9日

人生五十年、その五十年の回顧、長いやうで短かく、短かいやうで長かつた、死にたくても死ねなかった、アルコールの奴隷でもあり、悔恨の連続でもあった、そして今は!

昭和7年2月28日

生きるとは味ふことだ、酒は酒を味ふことによつて酒も生き人も生きる、しみじみ飯を味ふことが飯をたべることだ、彼女を抱きしめて女が解るといふものだ。

昭和7年3月14日

楽湯--遊於湯--何物にも囚へられないで悠々と手足を伸ばした気分。
とにかく、入湯は趣味だ、身心の保養だ。

昭和7年4月9日

世間師にもいろいろある、殊に僧形を装うていろいろの事をやつてゐるが、私は行乞を尊重する、ガラ(行乞の隠語)が一等よろしい、かへりみてやましいところがない(いや、すくない)。

昭和7年7月28日

長い暑い一日がやうやく暮れて、おだやかな夕べがくる、茶漬さらさら掻きこんで出かける、どこへといふあてもない、何をしようといふのでもない、訪ねてゆく人もなければ訪ねてくる人もない現在の境涯だ、たゞ歩くのである、たゞ歩く外ないから。--

昭和7年9月14日

今日は誰にも逢はなかった、自己を守つて自己を省みた、--私は人を軽んじてゐなかつたか、人を怨んでゐなかつたか、友情を盗んでゐなかつたか、自分に甘えてゐなかつたか、私の生活はあまりに安易ではないか、そこには向上の念も精進の志もないではないか。--

------------------------------

霧島は霧にかくれて赤とんぼ

越えてゆく山また山は冬の山

まつすぐな道でさみしい

どうしようもないわたしが歩いてゐる

------------------------------

山頭火にとっては歩くことが全てだったのかなぁという気がしている。
ただ歩く、歩く、ただ歩く、歩けるだけ歩く。
私も歩く事が好きで20年ぐらい前に小郡の其中庵や松山の一草庵を訪れた時のことを懐かしく思い出した。

昨日9月7日(木)にBS朝日で放送された「BS朝日 ザ・ドキュメンタリー 渥美清~知られざる寅さんとの闘い~」を見た。「男はつらいよ」シリーズの車寅次郎という当り役を得たが、このシリーズが長く続いた故に、他の役になじまず、役者として苦しんだという。

『人間 種田山頭火と尾崎放哉』(Town Mook 日本および日本人シリーズ 徳間書店 2013年)や昨日BS朝日で放送された早坂暁インタビューによると、渥美清は関心を持っていた尾崎放哉を演じてみたいと願って、脚本家の早坂暁氏と一緒に小豆島まで調べに行ったが、都合により断念、次に山頭火をやってみようということになり、今度は松山まで一緒に取材して歩いたが、諸々の事情によりそのドラマ(『山頭火 何でこんなに淋しい風ふく』)への出演は叶わなかったという。風天と号し山頭火ばりの俳句を残した渥美清は種田山頭火を本当は演じたかったんだろうなぁと思うのであるが今となっては見果てぬ夢である。

« 西の新地から船尾市場へ | Main | 5年振り十三へ »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

Post a comment

(Not displayed with comment.)

TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/32300/65765599

Listed below are links to weblogs that reference 世間師と渡世人:

« 西の新地から船尾市場へ | Main | 5年振り十三へ »

September 2017
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

アヒルちゃん